高幡山明王院金剛寺の歴史
真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。
その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。
のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。
続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。
足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。
当時門末三十六ケ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永8年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失した。
その後、歴代住持の営々たる努力により徐々に復興に向ったが殊に昭和50年代以降五重塔・大日堂・宝輪閣・奥殿・大師堂・聖天堂等の工事が相継ぎ往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。
総重量1100キロを超える巨像で古来日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は修復作業が完了し現在奥殿にご安置されている。